南部政直公御遺影(復元)
宗青寺開基である南部政直公は、南部家二七代利直公(1576〜1632)の次男として福岡城(もと九戸城、今の二戸市)に生まれた。
母は重臣、石井伊賀守直弥の妹、岩(楽女、香林院)。父の幼名と同じ彦九郎と名乗り、元和六年(1620)頃から政直に改めた。
慶長十八年(1613)10月に花巻城代に就任し、寛永元年(1624)10月23日25歳で急死。

◇白磁徳利
寛永元年10月23日、江戸城へ登る藩主一行が花巻城に宿泊され酒宴が催された折、政直公と岩崎城代の柏山伊勢守明助が相次いで急死した。死因は酒に毒が盛られており、藩主への伺候に出向いた柏山氏が仙台の伊達政宗と内通しているという疑いから毒殺を計ったものと伝えられる。
この白磁徳利に毒が入ってたといわれる。


◇南部政直公位牌と同座像
藩主、南部利直公にとってその将来の活躍を期待していた我が子死去に遭うという悲しみは想像を絶するものであった。
政直公の遺体は今の宗青寺境内で盛岡の報恩寺六世梵積和尚が導師となって荼毘に付された。
「海潮院殿天巌宗青大居士」
当初遺骨は玉垣で仕切られた御霊屋に安置された。翌年に政直公の菩提を弔う為、法名からとった天巌山宗青寺が建立され、初代住職に天庵玄甫が任じられた。

◇南部政直公墓石


◇南部政直公御使用御膳
黒漆塗向鶴紋散膳・椀の一揃い

◇南部政直公ゆかりの観音像
鎮守・観世音菩薩
慈覚大師の作と伝えられる