宗青寺開山

 寛永二年(一六二五)十月、利直は政直が頓死した、翌年戒名のままに天厳山宗青寺を川口長の現在地、玉桓の納骨所に新寺を設立した。しかし、元和元年(一六一五)、幕府により曹洞宗法度や永平寺・總持寺法度が発布されており、新寺の設立や本・末関係の明瞭でない寺院は認められないことになっていた。死去の際には報恩寺の住職が導師で位牌も預けてあることから政直公の永代供養は報恩寺で供養されることを願っていたと思われる。しかし花巻の遺臣は城主の墓と菩提寺が花巻にあることを利直に懇願した。考えられるのは郡代であったが雄山寺は家臣の開基した寺院故、そのまま菩提寺の客末となることを改めて雄山寺二世天安玄甫山和尚になることを要求し、戒名のままに寛永二年十月宗青寺は開山することになった。海潮院殿号は政直公百五十年回忌法要の際に号された。
 解散に際して花巻城からは奉納品として、槍一筋、霰釜一口、御紋不膳、椀揃、御紋幕二張、本尊としての恵心の作と伝わる観音木像が奉安された。