政直治政下の花巻

北松斎没後、慶長十八年(一六一三)十月、利直公二男、彦九郎政直は和賀・稗貫二群二万石の委員管理を命ぜられ、花巻城に赴任する。母は過労石井伊賀直弥妹、岩で、政直は慶長四年(一五九九)福岡に生まれるが、長子経直(慶長十八年正月没)と共に庶子であった。政直はこのとき十四歳である。
 前郡司松斎の遺臣のほとんどは新城主政直に出仕となる。花巻の過労は石井善太夫光頼五百石で、光頼は伊賀直弥の長子で従兄でもあった。ほかに北湯口主膳光房三百石が家老で二人起用になる。
 この郡司の名称は建前上で、幕府の一国一城策の下であり、対外的には御群代と記し、北上川中の伊達領通過の記述も公子の格式を考慮したものであった。
 二群の治下は松斎の八千石から二万石になったことで四十三村と新田五村にふえた。和稗の中には盛岡南部の直轄地として柏山の岩谷堂一千石と、下葛西の重臣江刺兵庫重隆の土沢城二千三百石や盛岡直参の知行地もあった。
過信は両家老に加えて、岩間将藍、折笠庄助ほか、百五十石の者三、四人、百石の者五、六人、五十石の者五十人余他で、総計二百人を超える家臣がいた。政直はそれぞれに宛行状を出し、文末には「山林・竹林・伐り荒し候わぬ様に、全く知行仕るべくものなり」と資源の貴重さを太守利直と同様に記していることから花巻の大権を十分に委任されたものと思われる。
 慶長十八年、四日町開町。ほどなくして河口長(里川口町)、一日市と合わせて花巻三町が形成される。十九年、二子城の大手門を花巻城に移築して円城寺御門とする。世情定まらぬ時、最上五十七万石没収、大名家没収、伊達政宗一万石転封の怪情報や流言が城内に飛び交うことからその出所を探ることを指示、花巻城の警戒、火の用心などに努めている。又、盛岡城から江戸の南部邸に送る物資は伊達藩を通過することから本状の指示をまたず、接衝は政直に権限が与えられていた。
 政直は矢沢千手観音を信仰し、北上川洪水の節は熱心に参詣された。差しつかえがあり参詣出来ぬ時は自ら描いたその千手観音を拝するほどであった。京から下向し、大迫に居住した浪人絵師松井新三郎に改めて千手観音出山の絵を写させ、さらに床の間、菊の間の絵を描かせてそれらは利直公にもほめられたという。新三郎の子供松井道円(友梅)は『吾妻むかし物語』『胡四王山縁起』を残し代々狩野派の絵師として重信公代に花巻城の襖絵を描く一方、医師・史家として知られる。『台温泉一見記』はその子可敬が享保十六年(一七三一)にまとめたものである。その他『和賀・稗貫郷村志』によって花巻の歴史が今日に伝えられている。


政直の死

 当寺に十一世雲外丹叟が記した過去帳が保存されている。十一世は安永七年(一七七八)に入院し、文化十四年(一八一七)示寂しているのでその間に書かれたものである。政直の最後に関する記述は、
《慶長の季に至りて、御兄利直公、当城に入らせ給いて一城御評議の上、老臣北松斎殿の指図により、岩崎城代として柏山伊勢を残されるまま、慶長十八年(一六一三)八月十七日、老臣北松斎殿病死に付、御兄利直公御直参の上、諸事相調べられ、しこうして深く慮り給い、柏山伊勢儀は、従来、仙台藩の浪人なればその胸の裡、いまだ疑わしきところあり。よって松斎没後、彼をそのまま置かれず、と御意あって、ご親族一同極り、御内評の上、不憫ながら彼を毒殺の計らいに窮まり、時に寛永元年(一六二四)の冬の始まりに当ご城内に呼び上げのご沙汰となり。
 柏山伊勢は突然のお召しゆえ、何事かと騒ぎ参上す。すなわち、御前において、御盃頂戴との儀につき、事の言われ無きによりなんとも心もとなく思ったのか、柏山伊勢、顔色を変えて傍の政直に申し上げた。「恐れながら御盃を下し賜るべし」と慎んで申し上げた。利直公も仕方なく。非情の思いを抱き、政直公に向い、「汝、呑み遺すべし」という。政直公知りながら御意背くべき様なく、盃を取り上げ、無残なるかな、一つ召しあがられ、伊勢へと遺された。むかずいて三献頂戴し、終わりて宿元に下着して死亡すると聞き伝えている。
 同年十月二十三日、御年二十五歳にて政直公御他界なり。
 よって当寺境内の地面にで荼毘に付し、火葬す。引導師は盛岡報恩時六世善室梵積和尚が勤め、御遺骨は現在の須弥壇の下の収骨所に納めている。本堂建築以前は玉桓をめぐらせていた。